
『土橋流、モノを引き継ぐコレクションストーリー』#7
《19世紀-銀の宝箱をかぶる羊の正体とは!? 》
ヴィクトリア時代のスコットランド紳士の社交場に欠かせなかった嗅ぎタバコ入れ「Snuff Mull」。羊の頭部に銀のボックスを宿すという大胆な発想!その当時のジェントルマンの嗜み(たしなみ)を垣間見てみよう。

1875年製 Snuff Mull(ヴィクトリア時代の嗅ぎタバコ入れ)
◆スコットランド紳士の嗜み、羊頭の器
英国アンティーク博物館BAM鎌倉の一角に、ひときわ異彩を放つコレクションがある。羊の頭部をそのまま用い、頭頂部に純銀のボックスを埋め込んだ嗅ぎタバコの葉入れ——“Snuff Mull(スナッフ・マル)”だ。
このMullとの最初の出会いは、ロンドンの中心部にあるスコットランド系ジェントルマンズクラブ「CaledonianClub」であった。玄関ホールの正面に鎮座したその姿にギョッとしたと同時に、その不思議な魅力に取り憑かれた。この怪物にも見えるSnuff Mullは、主に羊などの角や頭蓋骨をベースに作られ、その表面は銀細工や宝飾で豪華に装飾されている。クラブやマナーハウスなど邸宅の客間に置かれ、訪れたゲストをもてなすための嗜好品として使われた。

1917年製 Rams Head Snuff mull(羊頭の嗅ぎタバコ入れ)<カレドニアンクラブ所属@ロンドン>
嗅ぎタバコ=“スナッフ”は、18〜19世紀ヨーロッパで広く嗜まれた粉末タバコのことである。鼻から吸引し香りや刺激を楽しむ文化は、特にスコットランドや上流階級で社交の一部として根付いていた。中でも“Snuff Mull”は、羊の頭蓋骨を加工し、そこに銀や真鍮の装飾を施した贅沢な容器で、豪華な銀細工やそこに刻印されたホールマークは持ち主の財力や身分を雄弁に物語る。
◆振る舞いの所作と実用性
このSnuff mullは、単なる飾りではなく実用品としてデスクの上に置かれていた。底には小さなローラーが付いており、客人が訪れた際、主人が軽く押してテーブルの上を滑らせ、客人の手元に届けられる。蓋にはチェーンで繋がれた純銀の小さなスプーンと針が備わっている。スプーンで嗅ぎタバコの葉を掬い、針で細かくほぐす。その後、鼻から吸い込んで香りと刺激を楽しむ・・・それが当時の洗練された嗜みであった。

純銀のスプーンと針。嗅ぎタバコを掬い、ほぐし、香りを楽しむための必須アイテム。
◆語源の豆知識 ― “Mull”とは?
「Mull」という呼び名は、スコットランドで嗅ぎタバコを挽いて収める“容器”に対して使われていた。語源的には「よく考える」「混ぜ合わせる」という意味の英語 mull に通じている。一般的に「Mull」と聞くと、スコットランドのマル島(Isle of Mull)を想起するが、ここでは嗅ぎタバコ文化と深く結びついた特有の意味合いを持っている。
◆銀の履歴書――ホールマークを読む
BAM鎌倉のSnuff mullは1875年製。蓋の内側には英国スターリングシルバーのホールマークがくっきりと刻まれている。
アッセイオフィス(銀純度鑑定所)のマークやデートレター・・それらは、製作年・場所・メーカーを特定する“銀の履歴書”だ。わずか数ミリの刻印から、職人の息遣いや時代背景までもが浮かび上がる。

蓋の裏側にホールマークの刻印、 アッセイオフィスや年代を示す純銀の証し。
◆ロンドンでの出会い、そして別れ
このコレクションを私が入手したのは、BAM鎌倉を開館した年。ロンドンのGrays Antique Mallにあった老舗ディーラー、レオンさんの店だった。骨董と歴史を愛し、商品一つひとつに背景を語ってくれる。そんな、今では貴重な“Antiquarian(古物商)”である。
今年8月、久しぶりに会おうとGraysを訪れたが、彼の店はすでになかった。隣のディーラーが静かに教えてくれた。
「ジョンは去年、癌で亡くなったよ」
さらに彼のコレクションの行方を尋ねると、家族は骨董に興味がなく、遺品は散り散りになったという。 その瞬間、胸の奥にひんやりとした寂しさが広がった。モノは残っても、語り手がいなければ、その物語は薄れていく─ そう痛感した。

レオンさんとの最期の写真(2023年8月11日ロンドン Grays Antique Mall にて)
◆モノと人をつなぐ“記憶”
アンティークは単なる美術品でも投資対象でもない。それは時代を生きた人々の息遣いと、手から手へ渡ってきた物語の結晶だ。ジョンさんから受け継いだSnuff Mullを前に、私は思う。これは単に1875年の銀器ではなく、彼の語り口、ロンドンの空気、そして“次の世代へ託すべき記憶”をも内包している。
モノを引き継ぐことは、文化を守ること。そして、人と人を結ぶこと。
アンティークに触れるたび、その尊さと感動を、改めて感じずにはいられない。
次はどんな物語に出会えるだろうか─
英国アンティーク探しの旅は、まだ終わらない。
No Antique No Life
土橋正臣
このコラムを、亡きレオンに捧げます –