
「Hello 鎌倉」その4. 徳川家ゆかりの薬王寺(ガイド協会 × BAM 鎌倉)
【こちらのブログは英国アンティーク博物館と鎌倉ガイド協会がコラボして作成します。】
鎌倉ガイド協会は源頼朝が鎌倉の地に幕府を開いてからの歴史を基に、寺社や史跡の数々を多くの方々にご案内しております。三方を山に囲まれ、一方を海に開いた古都鎌倉。歴史散歩、寺社めぐり、ハイキング、季節の花観賞、マリンスポーツ、旬の鎌倉野菜やシラス等地元食材を使ったグルメ。四季を通じて多くの方々に愛される鎌倉ですが、鎌倉をよりお楽しみいただけるよう、「Hello鎌倉」その4として鎌倉ガイド協会が今月ご紹介するのは、扇ガ谷にある徳川家ゆかりの薬王寺です。

鎌倉駅東口から小町通りを歩きます。一つ目の交差点左側、よく車夫さんがいらっしゃるあたり
の足元をよく見すると小さな橋の欄干のようなものが見えませんか。これが扇川なんです。下流は
ほとんどが暗渠か家と家の間を流れるお堀のような川です。扇ガ谷から流れる川です。さて、川は
遡れないので小町通りを歩き、鉄ノ井の手前を左折して窟小路を進み、踏切の手前で右側の小路を
歩んでいきます。ここにも左側に小川が流れています。これが扇川です。しばらく、川沿いの道を
歩いて岩船地蔵堂を目指しましょう。

海蔵寺が管理する岩船地蔵堂は源頼朝の娘である大姫の守り本尊を祀っています。この交差点を
右に入ると間もなく左側の坂道の先に見えるのが徳川家にゆかりのある日蓮宗の大乗山薬王寺です。

薬王寺は、梅嶺山夜光寺といわれた真言宗のお寺でしたが、永仁元年(1293)日朗の高弟だった日像が日蓮宗に改めたと伝わります。坂を上り、境内に入ると、左に鐘楼、正面は本堂で右側に庫裡があります。庫裡の前に供養塔があります。

徳川家三代将軍家光の弟で、駿河大納言といわれた徳川忠長の供養塔です。徳川忠長は、兄家光
の不興を買い、28 歳の寛永十年(1633)高崎で自刃させられます。妻の松孝院殿が夫の霊を供養するために建てたものです。松孝院は織田信長の孫信良の娘でした。このように、江戸時代には徳川家ゆかりの寺として寺紋に三葉葵が用いられた為、一般住民の埋葬が許されない格式がありました。

本堂には、御本尊久遠実成釈迦牟尼佛の前に鎮座する日蓮聖人座像が見えます。徳川第 11 代将軍家斉の命により建立された徳川幕府の祈禱寺「鼠山の感應寺」(鼠山は、現在の豊島区目白付近)の本堂中央に奉られていた尊像です。その像内には、将軍の遺骨がおさめられてました。感應寺は、水野忠邦の天保の改革によって廃寺となり日蓮聖人座像だけは縁あって薬王寺に奉られることとなったそうです。
次に、本堂の左側から墓地に入ります。石段を登っていくと、高さ 3mほどの宝篋印塔二基が並んであります。

これは、会津若松の蒲生氏郷の孫で、四国の松山城主だった蒲生忠知の妻と娘が亡くなった際ここに埋葬された時の墓です。忠知の母は徳川家康の三女振姫でした。忠知は、寛永十一年(1634)に将軍徳川家光の上洛の供として京都に先行しその際急病死したと伝えられています。妻の松壽院は、磐城平城主・内藤政長の七女で、忠知死去の際は 20 歳懐妊中で、男児であれば蒲生家再興を約束されましたが女児を出産。この娘も 12 歳で死去し梅嶺院と号されました。この後、嗣子のいない蒲生家は断絶してしまいます。
二人の墓は、はるか材木座の光明寺にある生家の内藤家墓を向いています。

このような由緒の鎌倉の扇ガ谷奥にある薬王寺をお参りされては如何でしょうか。4 月初旬の薬王寺は参道の桜がとても美しいのでお奨めです。

鎌倉ガイド協会は、月 3 コースの企画ガイド「史跡めぐり」をはじめとし、休日散歩、個別、学校、旅行会社、英語ガイド等で、お客様に日本遺産のまち鎌倉と、歴史的に関係の深い神奈川県内の史跡をご案内しております。
新年度の 4 月には、史跡めぐり A コース「春爛漫、扇ガ谷の名刹で天下泰平を祈る~中世から近世に生きた女性たちの想い」を実施します。ご参加をお待ちしております。
鎌倉ガイド協会公式ホームページ:https://www.kcn-net.org/guide/
*ブログで使用しました画像については、薬王寺様の掲載許可をいただいています。