
「Hello 鎌倉」その6. 妙本寺散策(鎌倉ガイド協会 × BAM鎌倉)
【こちらのブログは英国アンティーク博物館と鎌倉ガイド協会がコラボして作成します。】
鎌倉ガイド協会は源頼朝が鎌倉の地に幕府を開いてからの歴史を基に、寺社や史跡の数々を多くの方々にご案内しております。三方を山に囲まれ、一方を海に開いた古都鎌倉。歴史散歩、寺社めぐり、ハイキング、季節の花観賞、マリンスポーツ、旬の鎌倉野菜やシラス等地元食材を使ったグルメ。四季を通じて多くの方々に愛される鎌倉ですが、鎌倉をよりお楽しみいただけるよう、「Hello 鎌倉」その6として鎌倉ガイド協会が今月ご紹介するのは、鎌倉時代の御家人・比企氏ゆかりの妙本寺(日本遺産の構成文化財)です。
鎌倉駅東口から若宮大路を横断し、本覚寺を横目にみて滑川に架かる夷堂橋を渡れば、妙本寺は目の前。「南無妙法蓮華経」の題目が書かれた石碑をみて、しばらく行けば総門に着きます。この四脚門の総門は江戸時代後期に造られました。その右脇に「比企能員(よしかず)邸址」と記された史跡案内の石碑があります。

源頼朝は平治の乱で平清盛に敗れたあと、父義朝は殺され、自身は20年もの間伊豆に流されました。その頼朝を支えたのが乳母であった比企の尼。比企能員は比企の尼の養子で猶子(ゆうし)となりました。頼朝が鎌倉に幕府を開いたのちは、比企の尼の功績が認められ、比企氏はこの比企谷の地を拝領しました。その後頼朝の嫡男頼家の乳母人(めのと)となり、鎌倉幕府内で権勢を振るいはじめました。一方頼朝の妻政子の父北条時政も千幡(後の源実朝)を擁し、将軍の外戚を狙うようになりました。両雄並び立たず。やがてこの地が悲劇の舞台となりました。世にいう建仁三年(1203)の比企氏の乱です。ただ次期将軍一幡を擁していたのは比企能員ですから、北条時政のクーデターとの見方もできますので、最近は小御所合戦と呼ばれています。不意打ちをくらった比企氏一族は滅亡しましたが、頼家の娘である源媄子(よしこ)と比企能員の子比企能本(よしもと)は生き残りました。

総門から祖師堂に向かう途中の原生林かと思わせる木立には圧倒されます。真夏でも涼しさを感じます。木漏れ日の濃淡に季節を感じながら階段を上れば江戸時代末に造られた二天門が迎えてくれます。二天というのは右側が持国天で左側は多聞天(毘沙門天)。東南西北のはじめと終りで阿吽を表現したと思います。

二天門をくぐり、正面にある巨大な建物が祖師堂です。祖師とは日蓮聖人のことで、お堂には、御宮殿という厨子のなかに日蓮聖人像、その右側には2世日朗像、比企能員夫妻像、左側には3世日輪像、比企能本夫妻像が安置されています。お堂のまわりに回廊がありますが、吹放外陣(ふきはなしげじん)といいます。お堂のなかに入れない参拝者のために設けたもので、強い日差しや雨がしのげ、散歩に訪れた人の憩いの場となっています。

さて妙本寺は開基が比企能本、開山は日蓮聖人です。比企能本はすでにふれましたが、日蓮聖人とは20歳違いで、日蓮聖人が京都遊学中に出会ったようです。儒学者である能本は承久の乱で佐渡配流された順徳天皇に仕えていました。日蓮聖人が『立正安国論』を北条時頼に提出した文応元年(1260)に弟子となり、その推敲を手伝ったといわれています。妙本寺があるこの地は、もともとは比企能員の館があった場所でしたが、小御所合戦で北条氏に敗れたあとは没収されました。では何故に比企能本に戻されたか?これは二代将軍頼家の娘で、実朝のあとに四代将軍になった藤原頼経に嫁した源媄子の尽力があったと思われます。滅亡した比企一族の菩提寺が現在に至るまで残っていることには、歴史の妙味を感じずにはいられません。 最後に二天門の背後、祖師堂前の広場に咲く、夏の花・ノウゼンカズラをご紹介しておきます。今年は開花が早く、既に終盤を迎えています。

鎌倉ガイド協会は、月3コースの企画ガイド「史跡めぐり」をはじめとし、休日散歩、個別、学校、旅行社、英語ガイド等で、お客様に日本遺産のまち鎌倉と、歴史的に関係の深い神奈川県内の史跡をご案内しております。
来月9月の史跡めぐりAコースのテーマは「深緑の妙本寺、初秋に出会う静謐の美」。まだ残暑が厳しい時期ですが、静謐という言葉が相応しい妙本寺を深掘りさせていただきます。
鎌倉ガイド協会公式ホームページ:https://www.kcn-net.org/guide/
*ブログで使用しました画像については、妙本寺様の掲載許可をいただいています。